プロフィール

prof_s
ニックネーム 健康食品マーケッター@石関
性別 男性
誕生日 1972年6月26日 21時頃
血液型 AB型
出身地 千葉県
お住まいの地域 福岡県
職業 自営業
出没地 天神エリア
ホームページのURL http://www.nutrition-link.com

自己紹介

健康食品の商品開発・販促サポートを行う

Nutrition Link代表。

国立健康・栄養研究所認定

栄養情報担当者(NR)

農商工連携コーディネーター

NRはMRとよく間違えられますが、Nutritional Representativeの略です。いわゆる健康食品のアドバイザリースタッフで専門家です。理系的な仕事の反面、スピリチュアル、自己啓発にも興味あったりします。

大学卒業後ロンドンに渡り2年後帰国。その間、欧州を放浪したりトルコでボランティアをしたりと好きなことをしていました。様々な仕事を経験した後、ある事をきっかけに福岡に引っ越し。

現在は福岡市在住9年。食べ物、環境、人々、海外へのアクセスの良さが気に入って住み着いています。

【その他取得資格】

初級システムアドミニストレータ

ケンブリッジ英検First Certificate

【所属団体】福岡商工会議所

【課外活動】

現在、UK Rock band「5 pound」のVo&Gt担当しています。

 

自伝~子供が自由に夢を見られるように・・・

私の使命は、品質の高いメイドイン・ジャパンの健康食品を世界へ広げることです。そして、子供たちとお母さんが、食事・運動の制限や、原因不明の症状に悩まされたり、病院での検査漬けの毎日から開放されて、自由に夢を見られるように、少しずつでも社会を変えていきたいと思っています。

現在、日本はもちろん、世界中の子供たちがアトピー、アレルギーのために不安で窮屈な毎日を送っておられることをご存知でしょうか。そして、アトピーの子を持つお母さんたちが、大切なお子さまのために、どれだけ心を砕いているかお考えになってみたことはございますか?

例えば、小麦や卵にアレルギーがある子供たちは、ケーキを食べることができません。小さなお子さまが、お誕生日会やクリスマス会でケーキを食べられないのです。

あと、さっきまで元気だった子供が、食事中、突然、意識を失ったり、呼吸をしなくなることもあります。幼稚園や小学校でも、みんなと同じものを食べられなかったり、運動が制限されることもあります。

みんなが無邪気に夢を見ているときに、アトピーの子供たちは抱えきれない葛藤を抱えて幼少期を過ごします。みんなが勉強をしたり、遊んでいる時に病院通いを楽しみにする子供はいません。

そして、多くの子供たちは「きっと、自分が良い子じゃないから…」と、理由もなく自分を責めているのです。一方で、お母さんたちは、心と身体の消耗を省みず、日々、お子さまの笑顔のために戦っています。

私自身、小さい時からのアレルギー体質で病弱だったために、8歳までに2度、意識を失いました。最初に倒れた時、原因が分からなかった母親は、そのまま私を抱えて夜道に飛び出し、病院までタクシーを走らせました。他にも、かゆみ、喘息、鼻炎、結膜炎と、毎年のように、アレルギーの症状が増えていきました。

まずは、3歳の時に、ひじ、ひざ、関節の裏、股、クビがジュクジュクになりました。痒くて、我慢ができません。かいてしまうと、傷が深くなって血が出てしまう。そんな悪循環が延々と繰り返される毎日でした。

そんなある日、スパゲッティを食べた瞬間に意識を失いました。親はひきつけを起したと思ったそうです。タクシーで病院に行き、扉をバンバン叩いても返事はありません。動転してしまって、もう、気が気でなかったそうです。

それからは、以前にも増して大学病院で検査漬けの毎日が始まりました。注射も多い時には手の甲や腕に9本、18本と打つことがありました。悲しくて、よく泣いていました。いつになったら治るんだろう。薬をもらっても、もらっても、いったん治まっても、また、出ての繰り返しです。泣く子の手を無理やり引っ張っていく母も、きっと、辛かったろうと思います。
誤診をされたこともありました。子供には、苦しい治療もありましたので、先生と母親が誤診の話しているのを横で聞いた時には、子供心に、もの凄くショックでした。

小学校2年生の時には、てんぷらを食べた瞬間に首がガクッと落ちて意識が飛びました。両親は、私が舌を噛まないように、割り箸を何本もグルグル巻きにして口に突っ込んだそうです。救急車で目が覚めた私は、なぜ割り箸をくわえて救急車にいるのかわかりませんでした。

その頃には、ぜんそくも抱えていて、少し運動するだけで喉が「ヒューヒュー」と、鳴りました。弱い自分に自信が持てずに、常に引け目を感じていました。みんなに知られないよう、いつも、ごまかしながら過ごしていました。

小学校3年生の頃には食事制限もしていて、みんなが給食のカレーやハンバーグを食べている横で、私は、いつも胚芽米や、粟(あわ)のような雑穀ばかりを食べていました。病気の症状に加えて、自分だけが質素なお弁当をコソコソと食べているのは、わびしい気持がしました。

けれども、それ以上に辛いのは同情されることでした。アトピーが不治の病のようにみられたり、特別視されるのは、とても悲しかったです。逆に、軽くからかってくれるぐらいの方が、よっぽど、気楽でした。それでも、どんな事にも耐えて必ず治そうと思っていました。

あと、小学校の高学年になると蓄膿症や鼻炎になり、鼻水が止まらなくなりました。一日中ズルズル音がするのは隠そうとしても、隠せません。気になる子が近くにいたりすると、とても恥ずかしかったです。

中学に入ると結膜炎になって目が悪くなりました。朝、目が覚めても目やにでまぶたが開かないのです。このように、体中から順番にアレルギー症状が出ることを、「アレルギーマーチ」といいます。この頃の私は、今度はどんな病気になるんだろうと思って、毎日、心配しながら過ごしていました。

母は、必死で治療をしてくれました。効果があると聞くとどんなものでも試しました。例えば、小さな純金の棒で皮膚の上をさすったり。どくだみ茶を飲んだり、色んな野菜をぐつぐつ煮込んだまずいスープや、にがい漢方なども試しました。

他にも、色々と自分で私の症状について調べてくれて、ステロイドを極力使用しないようにしてくれていました。おかげで、中毒にもならずに、今では、アレルギーの傷跡も殆ど目立ちません。本当に感謝で一杯です。
私にアレルギーを忘れさせてくれたものはロック音楽でした。たまたま、兄が買ってきたビートルズのレコードに衝撃を受けてからは、どんどんとのめり込み、高校ではバンドを結成して、卒業後もプロを目指しました。

自信を持てずに過ごしてきた私ですが、高校時代には、チヤホヤされて人生が変わりました。そして、これで生きていこうと決心をして、ロック音楽の聖地であるロンドンにも音楽修行に行きました。

現地では、井の中の蛙であることを痛感して、結局、挫折してしまうのですが、人生を変える大きな出逢いがありました。

語学学校で出会った47歳のアルメニア人のサイモンは、内戦状態の国を追われて、一人、ロンドンに来ていました。祖国では、いつ爆弾や銃で殺されるか分かりませんし、経済も破綻状態なので食べていくことが出来ないのです。

彼は、取締りを逃がれながら、フィッシュアンドチップスの店でフルタイムで働いていました。日本のファーストフード店のような場所です。もちろん、人並みのお給料はもらえません。そして、見つかれば内戦中の母国に強制送還されるのです。それでも、食べるために、彼はリスクを承知で働いていました。

そのサイモンが、いつも目をキラキラと輝かせながら語ってくれたことがあります。「いつかバーバー(散髪屋)をやりたいんだ」。といっても彼には資格も技術も経験もありません。それでも、心から未来を信じていることが私にも伝わりました。年だからとか、国が戦争だからとか、ビザがないから、そんな言い訳を一つもしないのです。だれにも引け目を感じずに夢を語る姿に私は大切なことを学ばせてもらいました。

夢を追いかけるのに、何の遠慮もいらないんだ。

日本に帰ってきた私は、語学を活かせる会社でキャリアを積み、責任の重い仕事もさせてもらうようになりました。そして、母ががんを患ったのを機に、健康食品の業界に転職。

沢山の商品開発に携り、中国の広州、香港、フィリピン、アメリカ、ハワイと世界各国を渡り歩く経験もさせて頂きました。主に、ローヤルゼリー、コラーゲンといった美容、アンチエイジング商品や、免疫力の回復、血流改善に関する商品を扱いました。

商品を出すときには、発表会を開催するのですが、その時には、お客さまの体験談が続々と上がってきました。自分が予想もしなかった声が沢山あり、自分が開発に携わった商品の可能性にはワクワクしましたし、自信にもなりました。

喜びの声をたくさん頂けるのは格別な感動がありましたが、健康食品は、口に入れるものなので、身の引き締まる想いがありました。あと、効果を実感されない方も中にはおられます。そういう方々が少しでも楽になるお手伝いがしたいと思って、「NR」という健康食品の専門知識に関する資格も取得しました。

母が病気で辛がっている姿も、仕事を頑張る動機になりました。あと、自分がアトピーで苦しんでいた時には、良い情報が選択できず、「何かがいい」といわれれば、母は、お金に糸目をつけず、藁をもすがる想いで試していました。だからこそ、弱い立場の方のために、良い商品をつくることで人の助けになりたいという想いが原動力になりました。

その後は、健康食品大国であるアメリカに参入するプロジェクトの主要メンバーとしてのチャンスも頂きました。以前は、ロンドンの裏通りで途方にくれていたり、子供の頃、アレルギーで自信が持てなかった自分からは信じられないような経験をさせて頂きました。

その後、会社の方針で、国際戦略が変更になったことを転機に、その会社を円満に退職させていただき、今、また、一人から、この夢へのチャレンジを始めました。

振り返ってみて思うのは、もし、いいかげんな親なら、今現在の、私の命も、健康もありませんでした。この親じゃなかったら生きていないと思います。だからこそ、このもらった命を大切にしていきたいですし、親への恩返しをしたいです。

そして、天国にいる母のためにも、今、子供さんの健康のために頑張っているお母さんを応援したい。その気持が私の原動力です。子供さんの健康のことで、夢を諦めないで欲しいと思います。

だからこそ、品質の高いメイドイン・ジャパンの健康食品を世界へ広げていきたい。子供たちとお母さんが、食事・運動の制限、原因不明の症状に悩まされたり、病院での検査漬けの毎日から開放されて、自由に夢を見られるように、少しずつでも社会を変えていきたいと思います。

健康食品の開発やマーケティングにご興味がございましたら、お気軽に、ご相談くださいませ。

最後まで、ご覧くださり、ありがとうございます。

 

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